
先ほど、かつて勤めていたレコーディング・スタジオの同僚から、レコーディング・エンジニアの森本八十雄さんが亡くなったと連絡が入りました。森本さんはレコーディング・エンジニアとしての私の直接の師で、最近映画化もされた「音響ハウス」でチーフ・エンジニアを務めていた人。ポップス方面では松任谷由実さん、ジャズ方面では渡辺貞夫さんなどが全幅の信頼を寄せた方でした。ビショップレコーズのサウンドは、クラシックのステレオ・ワンポイント録音と、レコーディング・スタジオでのマルチ・マイキングの合わせ技ですが、後者は明らかに森本さんの録音の影響を強く受けたものです。
レコ―ディング・エンジニアとしての私の人生は、「ジャズの録音を勉強したくて来ました。将来はその技術を活かしてレーベルを作りたいです」と、森本さんのいるクレッセント・スタジオの門を叩いた事から始まりました。面接でそう話したからだと思いますが、当時すでにジャズ録音の巨匠として知られるようになっていた森本さんは、ジャズやブラジル音楽のようなインストゥルメンタル音楽の録音となると、よく私をセカンド・エンジニアとして使ってくれました。渡辺貞夫さん、日野皓正さん、本田竹広さんといった録音を通し、色々と学ばせていただきました。私のドラム録音がロックではなくヴァン・ゲルダーなどのジャズ録音の延長線上にあるサウンドに近く聴こえるのは、恐らく森本さんのドラム録音を真似るところから始めたからだと思います。例えば、キックにマイクを2本使わずにアタックと箱鳴りを録音時に1本のマイクで決めてしまう事で位相を良くし、次にトップマイクとの位相を合わせていく、といった具合です。
私だけではないと思いますが、森本さん付きで仕事が出来るようになってくると、「近藤、バランスだけ取っておいてくれ」、「マイク立てに行ってくれ」、「ここに座ってセッションを進めてくれ」といった具合で、徐々にエンジニアとしての経験を積ませてくれました。今とは違い、メイン・エンジニアにたどり着く事の出来る人が少ない時代にやらせていただけたのだから有難い事なのですが、しかし数年前まで赤坂の博打場にいた不良でしかなかった若者が、ガラスの向こうにいるレジェンド級のミュージシャンと向き合って緊張しない筈もなく…。
山下洋輔さんの録音セッション(恐らく今村昌平監督『カンゾー先生』の劇伴録音)の際、森本さんが来る前にマイキングを勝手に決めている時(そうやってマイキングしてしまい、森本さんがどう修正するかを見たかった)に、洋輔さん付きのご年配のピアノ調律師さんがこんな事を話してくれました。「今日のミキサーは森本君だろ?彼、学生時代はジャズのライブハウスによく来てたよ。あのジャズ狂いの学生が今では巨匠なんだからなあ。」
スタジオに勤めながら、私はミュージシャンとしても動いていました。ギターだけ弾いていればよかったものをバンドも抱え、ライブの本数が増え、さらに音楽レーベルまで立ち上げた事で、寝る時間が無くなりました。これを効率化するため、スタジオでの録音仕事が終わると、そのまま夜中にスタジオを使って自分の曲の録音やミックスをする事が日課になりました。同じことを考えた先輩エンジニアと、オフ日のスタジオで鉢合わせしたこともありました。先輩は「大きすぎるスタジオだとこういう練習は出来ない。小さすぎるスタジオだと弦やビッグバンドやドラム録音の経験を積めない。このスタジオだと来るミュージシャンの演奏は一流、森本さんの録音も見れる、夜中に自分で録音やミックスの練習もできる。実際、有名なエンジニアがここに来てやっている録音を聴いても、俺たちの方が良い音で音を収めてる。公平に考えても、俺たちが日本で一番いい音を録るエンジニアだよな」といっていました。
ある日そうやって勝手にスタジオを使っている現場を森本さんに見つかったのですが、森本さんは怒るでもなく「コンソールに火を入れると馬鹿高い電気代がかかるんだから、ほどほどにしとけよ。明日も仕事だろ、日が昇る前に帰れ」と言って、見て見ぬふりをしてくれました。「褒められたものじゃないが、音響ハウスにいた頃、T山もI上もA川も、そうやってセッション後に自分たちで録音をして腕を磨いていたよ」と言っていました。その頃、森本さんはチーフでしょうから、やはり見て見ぬふりをしていたのかも知れません。
ショーロ・クラブ(笹子さんと秋岡さんのデュオだったか)のレコーディング・セッション後に、森本さんからこんな事をさせられたことがありました。スタジオで、ショーロクラブのホームページの書き込み欄を一緒に観ていると、「おい近藤、俺が言うとおりに書き込め。『こんにちは、今回アシスタント・エンジニアを務めさせていただきました近藤です。森本はもう齢なので、次回セッションからは僕がメイン・エンジニアをやらせていただきます。』書いたか?よし、送信しろ!」断り切れず本当に書き込んだのですが、これは私にショーロクラブの録音を一部任せようと思ったのかも知れず、つまりその頃すでに体調が良くなかったのかも知れません。
私が一身上の理由で録音スタジオから音楽プロダクションに身を移す事になった時も、あたたかい言葉をかけて下さいました。「近藤は突っ張って生意気に見えるから、ディレクターに可愛がられる事は少ないだろうし、若いうちは苦労するだろう。でもお前は可愛がられるタイプではなくて人を引っ張るタイプだ、俺は高く買ってるぞ。もし新しい会社をやめる事になって、その時にまだレコーディング・エンジニアを続ける気があれば、もう一度だけ雇ってやるから戻ってこい。」
私がスタジオを離れてほどなくして、森本さんもチーフ・エンジニアを降りたと記憶しています。これで、森本さんに育てていただいた世代では、私や後にエイベックスに行った同期の芝本、あるいはのちに松山千春さんなどを録音する事になった後輩の菊地くんあたりが最後だったのではないでしょうか。その頃の森本さんは不眠症に悩まされて入院したと噂で聞きました。都内のあるレコーディング・スタジオでばったり出くわしたことがあったのですが、「眠れなくて辛い。逆に言うと、寝ていないから一日中眠い」と言っていたので、状態が悪化していたのかも知れません。そして眠るためにアルコールを飲み…もともと酒好きな方でしたが、不眠症で深酒になったのか、深酒で不眠症になったのか。兄をはじめ、私にはアルコールを引き金として命を落とした知り合いが多いもので、つい森本さんもアルコールが最初の引き金になったのではないかと思ってしまいます。
録音やミックスだけでなく、スピーカー調整やスタジオ・デザインに至るまで、私のレコーディング・エンジニアとしての基礎は、先輩エンジニアの方々に現場で教えていただいたものが少なくありません。その恩師の筆頭が森本さんで、自分の人生のキーマンのひとりとなった忘れられない方です。自分の道を歩むために私は録音スタジオを卒業しなくてはなりませんでしたが、森本さんがいた頃の伝説のスタジオで学んだあの頃は、人生の土台を築いた思い出に残る時期でした。恩返しをする前の別れとなってしまいましたが、色々と有難うございました。
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- 2020/12/05(土) 01:12:18|
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