
10/20に、クラシック・ピアニストの住友郁治のライブ音源をリリースさせていただきます。主にロマン派音楽を扱っています。私は人生で一度だけ、コンサートで落涙してしまった事があるのですが、それが住友さんのパフォーマンスでした。
クラシック・ピアノのリサイタリストの過酷さは知られている通りです。身体能力の極限を要求するレパートリーや、批評家の厳しい批判に対する恐怖など様々な理由から、多くのリサイタリストが過度の練習に嵌まり込み、手や体を壊し、プレッシャーに潰され、一線から退いていきます。天才と言われたグールドですら30歳で退き、アルゲリッチの実質的なソロ・リサイタルからの引退も早いものでした。本作はリサイタルのライブ録音ですが、住友もやはり重圧と戦いながら準備に取り組んだようで、リサイタル当日には既に限界を超えていました。コンサート制作会社に中止を申し込んだほどの状態で、当日は朦朧とした意識の中で演奏を続け、特に後半は演奏した記憶すらほとんどないそうです。
ボクサーがパンチを受けて意識が飛んでしまうと、突如として素晴らしい動きになる事があるそうです。これは理性の監視を省略して脊椎反射に近い状態になるために起きるのではないかと推測します。突飛な発想かも知れませんが、このリサイタルにおける住友は、ボクサーの例と同様の状態にあったのかもしれません。リサイタルの後半に特に顕著となる、まるで感情そのもののような表現に、私は心を動かされました。すすり泣くときや叫ぶときには呼吸が大きく乱れるものですが、このリサイタルでクライマックスに達する瞬間のピアノの息づかいがまさにそれでした。この時、演奏を制御していたものは、理性ではなく感覚であったのではないかと憶測します。
トランス状態が良い演奏を引き出すかと言われると、むしろ悪い結果に繋がる事が多いのではないか想像します。結果、意識に「ぼんやりと眺める」程度で演奏に向かえる所まで演奏を身体化してからステージに上がる事が理想なのかも知れません。しかし、更に先まで進んで「意識なしで」演奏できる所まで習練を積んだ演奏の場合、トランス状態は何を引き起こすか。演奏が究極的に何を狙うものかを考えると、これは最良の、しかしほとんどの演奏家が経験しえない状態と言えるかもしれません。
本録音で、私個人がその瞬間と感じるのは、ほんの数秒です。「入った」と思う時間がしばらく続き、その恍惚状態からほんの数秒だけ、感情の動きそのものとしか聴こえないほどの瞬間に至る。失礼な言い方になるかもしれませんが、今後の人生で住友がここに至る瞬間は二度とないかもしれません。「記憶がない」というだけあって、感情に任せたような瞬間の前後にはマイナスも感じます。しかしそれと引きかえに、いや、引きかえどころか十分にお釣りがくるほどの何かを演奏は示したように、私には感じられます。こういうものを、解釈とか、上手下手とか、あるいは好き嫌いという机上で形容する事には抵抗を感じます。
住友はリサイタル直後に片耳が聴こえなくなり入院してしまったそうですが、これはソロ・リサイタルのステージに立つ事がどういう事なのか、それと同時に演奏家の覚悟がどれほどのものであったのか、これらを示すエピソードではないでしょうか。ロマン派のクラシック・ピアノには、他の音楽にはない独特の官能の存在を感じます。仮に(ある種の)官能を追う音楽の場合、その究極は何にたどり着くのか。もし音楽好きで、しかしロマン派の時代のクラシック・ピアノに心を動かしたことがない方がいらっしゃいましたら、この録音は推薦出来るもののひとつです。伝わる人には伝わるであろう「その一瞬」の為だけでも、聴く価値のあるパフォーマンスではないかと思います。
http://bishop-records.org/onlineshop/article_detail/EXAC013.html
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- 2015/09/24(木) 14:24:55|
- EXAC013
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